とても奇妙な話①では、私(意識)が主体的に脳を動かしているのではなく、脳が私を動かしていること、さらにブッダは瞑想することによって「私(意識)は存在しない」という仕組みに気付いたことを述べました。
とても奇妙な話②では、宇宙がビッグバンで誕生した仕組みと、ヒンドゥー教の聖典「リグ・ヴェーダ」から、原子たちが元々、意識を作り出す能力を備えていたことを述べました。
とても奇妙な話③では、物理学と量子力学の側面から「運命」の存在ついて述べました。
最後の章では①~③の内容を踏まえ「僕たちの生きる意味」について考えてみましょう。
宇宙はビッグバンによって誕生し、原子が生まれ、この世界を形成しました。
そして、ベンジャミン・リベットという科学者による実験を通して「私(意識)が主体的に脳(原子)を動かしているのではなく、脳(原子)が私を動かしている」と言うことが分かりました。
それよりも前に、仏陀(ブッダ)とリグ・ヴェーダの作者は、遥か昔に瞑想を通じて意識と向き合い、この「私(意識)と脳の関係」に気付いていた…
なぜ気付くことができたのか?それは原子が元から意識を作り出す能力を備えていたからです。僕たちの脳もミクロで見れば原子で構成されています。
もし、この意識と脳の関係が真実ならば、私達は脳の決定をなぞるだけの存在となってしまう…
しかし、こう考えることもできませんか?
脳(原子)が私(意識)を作ったということは、ここには何か意味が存在すると…
この意味とはいったい何でしょう?
僕はこの意味が「我々の生きる意味」に繋がっているではないかと思うのです。
とても奇妙な話①で、私(意識)が人間という座席に座って、人間が歩む人生を観客として観ているような感覚だ、と述べました。
その意識を作ったのは原子です。そして、意識が、私が、毎日していることは何か…それは自分を通じて多くの人生を見ることです。この人生とは言わば「物語」です。
ということは、原子が「物語」を求めている。
そして「私」とは、別次元からその「物語」を観る観客。この「私」には熱量もエネルギー量も無いから、人間による物理の法則の外にある。この奇妙なバランスこそが、世界の仕組みではないか?
この「物語」は、神話、ドラマ、フィクション、勉強、なんだって良い。だらだらした一日。友達と遊んだ一日。しんどかった一日。つらかった一日。この全てが、かけがえのない物語です。ここに優劣なんてありません。
この物語に、どのような意味があるのかは分からない。我々の物語を欲する”何か”が存在しているのかもしれない。単に原子のたゆたう流れの中にあるだけかもしれない。しかし僕たちは、もしも意味があった時のために、きちんと生きなければいけない。
物語を生み続けること…これこそが「我々の生きる意味」です。
だから、人の物語(命)を奪ってもいけないし、自ら物語(命)を絶ってもいけない。僕たちの物語は、ビリヤードのように運命が存在するかもしれないし、量子力学のように運命など存在しないかもしれない。僕は大きい運命の中に小さな偶然があるように思います…
さて、ここで自分の過去を思い出してみてください。そこには必ず自分が歩んできた一本の道があります。そして、その道はあなたが死ぬまで続いていきます。決して2本の道を歩くことはできません。それが決められた道であろうと、変えられる道であろうと、関係ありません。
結局は一本だけなのです。
この脳によって見せられた人生を歩む過程において、困難を西洋的に「神の試練」と捉え運命に挑むのか、それとも、東洋的に「諸行無常」と捉え安らかに暮らすのかは自由です。時には運命を信じ、時には偶然を信じれば良い。どちらが正しいなんてことはありません。
さあ、脳によって見せられた人生(ショー)を思う存分楽しみましょう。この世界は…この圧倒的に高度で、膨大で、複雑なシステムは、全て、あなたの「物語」のためにあるのです。
END